母も・・逝く 2010年07月08日(木)

母も逝ってしまった・・・
弟が逝ってから半年も経たずに・・・

急変を聞いて病院に駆けつけたのだが、すでに自力呼吸は無理の様子で、心臓がどうやら動いている状態。
手を握りしめ、これなまでの感謝の言葉をなげかけていると、心臓の鼓動が「すー」と途絶え、眠るように亡くなった。

まるで自分の到着を待っていたように・・・

これまでの辛そうな暗い表情が、本当に安らかな寝顔に変わっていた。


昨日の告別式、出棺時には雄輔も駆けつけることができた。

4年前に重い肺炎を患い、足腰が不自由になったため、施設暮らしを続けてはいたが、こんなにあっけなく逝ってしまうとは・・・・

77歳を迎えたばかりだった。

思えば苦労と忍耐の人生だったように思う。

5人姉妹の長女として生まれ、終戦直後父親が急逝、幼い姉妹を支えるため、学校をやめ奉公にでる。

その後、親父と知りあい結婚、商売を一緒に始めるのだが、わがまま放題の親父にどれだけ辛く悲しい思いをさせられたことか・・・

そんな中でも、私達二人兄弟をしっかりと育ててくれた教育熱心で、心優しい母だった。

私達も共稼ぎだったので、雄輔も亮輔も実家で育てられたため、本当におばあ
ちゃんっ子だった。

母の人生で楽しく充実していた日々は、この孫を育てていた時期だけだったようにも思う。

弟の死を知らずにいたのが「せめても救い」と思っていたのだが、通夜から告別式のかけて、どうも弟の存在を感じてしまった。

きっと迎えに来ていたに違いない。


この上は、二人仲好く、西方浄土で、誠の安心の中、暮らしてもらうよう願うしかない。

お袋、お疲れ様でした。

これまで本当に有難うございました。

敏之よ・・・お袋を頼む・・・合掌

御弔意有難うございました 2010年03月27日(土)

弟の件で、多くの皆さんから、弔意とともにご心配のメールをいただきました。
心にかけて頂きまして本当に有難うございました。
また、雄輔のライブの感想や感謝の言葉を頂きながら、謝意を申し上げられずに申し訳ありませんでした。
ライブ最終日の東京に、ふさぎ込んでいる弟の嫁と娘を誘い、弟の遺影とともに参戦させました。
歌手を夢見ていた弟が雄輔の雄姿を本当に喜んでいるような気がしました。
二人とともに楽屋へ行ったのですが、お互いを気遣ってあまり言葉にならず、ただただ涙を流していました。
上地家にとって、5日の最終日の感動は、ことのほか深い意味合いを持ち続けていくような気がしております。

メールをいただいた方の中には、もっと深い悲しみや障害をお持ちの方もいらっしゃるようで、そのような苦しみの中からも温かい励ましの言葉を頂きました。
お心遣い重ねて感謝申し上げます。
有難うございました。

弟よ 2010年03月24日(水)

二人兄弟、二つ下の弟が急逝してから、ちょうど、1月がたった・・・・
まだ、まだ、気持ちの整理がついていない。

腹水がたまっていながら、昨年暮れから無理を続けていたらしく、娘の説得に応じて緊急入院をしたのが、1月18日。
16日の賀詞交換会に来ていなかったので、心配はしていたのだが、病院に駆けつけた時には、すでに手のほどこしようがなかった。
弟の友人である医師の大学病院へ緊急搬送に一縷の望みをかけたが、病院の懸命な救急医療に一時は驚異的な回復をみたものの、横須賀の病院に戻るとまもなく息をひきとった。
2月23日、遊助の名古屋ライブに出かける前に、弟を見舞ったのが結局最後の別れになってしまった。
今でもその時をはっきりと思い出す。
私が病室に入ると、弟は神妙な顔つきで私を見つめ、
「先に逝ってます。迷惑をおかけしますがお許し下さい」
「貴方が、この部屋を出ると次に逢う時は私は逝っています」
という。
私は「バカなことは言うもんじゃない、お前は生きるよ」と、しばらく全身を
撫でていたが、弟は涙を流しながらも寝ついた様子だったので、一抹の不安を残しながらも病室を後にしたのだが・・・・
翌朝の名古屋からの車中、弟逝くの知らせ。
覚悟はしていたが、自らの魂が引き裂かれた想い・・・・
急ぎ病院へ駆けつけると、眠っているような安らかな面持ちの弟。
涙が止まらなかった。


振り返れば、いつも俺の後を追ってきたような気がする。
どうしても俺と同じ高校に行きたくて、先生に無断で願書を変更。
願書締切日、受験予定高にタクシーで乗り付け願書を取り返し、勝手に我が高校に提出したのだが、入試の成績が良かったので無事合格。
その後も病に侵されながらも何年もかかって、早稲田に入ってきた。

思えば数奇な運命なのかもしれぬ。
浪人時代にB型肝炎発症。
大学時代には行きつくところまで病状が進み、静脈流破裂。
食道離断の手術を受け、一命は取り留めたが、余命は半年と言われた。
「この事実は私だけの秘密にしてほしい」と主治医にお願いし、漢方薬はじめあらゆる治療法を必死に探し続けたことを昨日のことのように思い出す。

一日一日と奇跡を祈る毎日だったが、生きている細胞がほとんどない肝臓が
2〜3年後に奇跡的までに正常値に戻った。
その後結婚もして二女をもうけ、自らも事業を興したのだが、沖縄で新事業をオープンする予定当日、自動車事故。
車大破で誰もが即死と思っていたが、心臓だけは動いていたらしく数カ月後に目を覚まし、1年がかりで復活。

一時は歌手を目指していたため、夜な夜な浴びるように酒を飲み、ピアノの弾き語りは横須賀でも有名だった。
私が病状を一番良く知っていたために、飲んでいる弟に対してあまり良い顔を見せなかったのだが、このことが、世間では仲のよくない兄弟と思われていたようだった。

54歳、働き盛り、早すぎる、とは言え、若い頃の病気から考えれば「良くここまで生きられた」のかも知れない・・・・。


「なにか兄らしいことをしてやれたのか」と「自責の念」と「悲しみ」に未だ襲われる。

しかし、逝くまでのひと月、黄泉の世界へ踏み出しつつある弟が、仏の面持ちになり、素直に「兄さん、兄貴」と言いながら、これまでの今世の不明と不徳を後悔し詫びる姿に、初めて強烈な兄弟愛ともいうべき想いを相互に感じとる時間が持てたことだけでも、せめてもの慰めと考えるようにしている。

多くの、多くの方が通夜、告別式に参列して下さった。

告別式での最後の別れに、
「こんなに多くの人達に愛されていたのに、生き急いでバカが・・・・
 早く転生して戻って来い」
と声を振り絞るのが精いっぱい。
バックに流れる雄輔のヒマワリの旋律が本当にせつなく悲しかった。









再び有難うございます 2010年02月12日(金)

昨日、遊助のツアー初日ということで、夫婦で出かけた。
熱気溢れるステージで、雄輔やチームの思いが充分に伝わり、本当に楽しく、嬉しかった。
実は結婚記念日でもあったのだが、開演前に会場の皆さんから突然祝福され、恐縮するわ、恥ずかしいやら、冷や汗が止まらなかった。
ライブ中にも記念日であることを雄輔が話したものだから、再び冷や汗・・・

あの寒かった32年前の結婚式を振り返ると、まさか今日のように息子のおかげで3000人近くの皆さんから祝福されようとは思うべくもなく、想像をはるかにに超えている現実がある。
人生って本当にわからない。
人生ってええええ♪不思議なものですね〜♪

これも女房と息子のおかげと改めて感謝、感謝、感謝。

また、多くの皆さんから結婚記念日のお祝いメールを頂きまして恐縮してます。

本当に有難うございました。
(それにしてもどうして皆さんがご存じなのか不思議でならないのですが)

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